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渋谷Bunkamuraでのガラス展 心の岸辺に

2019/07/25 12:01
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NOE Mielotar *心の岸辺に*

三日目になりました(~19:30 最終日30日は17:00)

会場は寄せていただいたお花や笑顔と清らかな音が重なって…感謝です

長年の友人が寄せてくれた紹介文は、まだ私には遠くにある目標の一つが書かれ、理解されている喜びと励ましを得ました。
ご一読下さい

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のえさんの個展に寄せて

 のえさんの個展は、関東圏で開催されたものはこれまでほぼ足を運んでいる。彼女の表現の基本軸は変わらないが、作品の放つ質は着実に精緻で豊かなものに変容しているのを私は感じる。着実な技巧的成熟がその所以であることは言うまでもないが、のえさんが自らの作品にむけるまなざし、いや作品だけでなく彼女を取り巻く自然に向けるまなざしとその感受の深まりを、私はそこに更に強く感じるのである。それはおそらく、ガラス作家としてのキャリアを積み重ねてきた余裕と自信ゆえであろう。本展の作品群は、まさにその証左であると私は思う。

 自然を静かに観察し、その中に自らを同化し、その一体感をそのままに表したいとする欲求を、日本人は古来からもっている。草花を客体として観察するのではなく、「草花と共に在る」という意識で眺めること、そうした姿勢から生み出されてきた日本人の古来からの表現は、明らかに西洋人のそれとは本質的に異なる気配を放つ。のえさんの作品にはこうした当たり前の日本の気配がある。

 のえさんの作品にエミール・ガレとの類似性を指摘する声があるが、彼女の生み出す作品はガレのそれとは本質的に異なる。ガレの作品の美質は、石の壁に囲まれた独立した室内に置いて初めて成立する、極めて客体的で物質的な美質である。それに対してのえさんの生み出す作品は、自然の中にこそ息づく場をもつと私には感じられる。草花を息づかせる周囲の空気が結晶となりガラス化しているような印象を、私は受けるのである。器という事物の距離感が希薄と言おうか、器としての実体感が希薄と言おうか。のえさんの生み出す器は、物質として、そして同時にある種の空気として存在するような、実に不思議な佇まいを私に感じさせてくれる。それこそが、古来から日本人が表してきた感性なのではないだろうか。

 いずれにせよ、これまでの、そしてこれからののえさんの生み出す作品の有様と行末を、私はとても楽しみにしている一人である。

埼玉大学教育学部教授・画家
小澤基弘

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